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McKINNEY, Tamara (USA)
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1962年10月16日 Lexington,Ky.(USA)生まれ
身長 160cm 体重 58kg
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SKI: Dynamic
BOOTS: Tecnica
BINDING: Marker
※1991年引退 |
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| Shiga Kogen 89 |
Oslo 84 SL/1st |
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World Cup Ranking
General
1979/25th, 1980/14th, 1981/7th, 1982/9th,
1983/1st, 1984/3rd, 1985/8th,
1986/24th, 1987/6th, 1988/54th, 1989/11th, 1990/-
Special
1981 GS/1st, 1983 SL/2nd, 1984 SL/1st, GS/3rd,
1985 SL/2nd, 1987 SL/2nd,
1989 SL/3rd.
World Championships
1982 Schladming GS/6th.
1985 Bormio K/3rd.
1987 Crans Montana K/3rd.
1989 Vail SL/3rd, K/1st.
Olympic Games
1984 Sarajevo GS/4th.
World Cup - 18 w. (9 GS, 9 SL)
| 1. |
GS: |
Haute-Nendaz 81, Les Gets 81, Aspen 81, St-Gervais 83,
Watervill 83 I+II, Vail 83, Watervill Valley 84, Zwiesel 84. |
| SL: |
Limone Piemonte 82, Davos 83, Furano 83, Watervill Valley 84,
Oslo 84, Maribor 85, Watervill Valley 85, Courmayeur 86, Mellau 87. |
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1981年1月23日、快晴のオート・ネンダ(SUI)は雪も堅く最高のピステだった。タマラ・マッキニーは1本目小柄な体をフルに使って滑らせ、2位のエリカ・ヘス(SUI)に0秒62の差をつけトップに立った。マッキニーは前年あたりまで2本とも上手く滑ることに難点があった。だがこの年は違った。2本目もまるで勝利を確信しているかのように滑り、1本目の0秒62の差を生かした。ゴールするとチームメートに取り囲まれいかにも嬉しそうだった。帽子を取るとはらりと落ちた長い髪が風になびいた。
続くレ・ジェ(FRA)でもこんどは2本ともラップを取り、イレーネ・エップレ(BRD)に1秒69の大差をつけて連勝した。「特別に変わったわけではありません。いま結果がそう出たということだけよ。前だって悪かったわけじゃなかったんだけど」、愛くるしい顔をクシャクシャにほころばせながら、そう言ってちょっとおどけて見せた。
いい結果がさらによりいい結果を呼び込んだ。「1勝したらすっかり余裕ができた」と言っているように、レースにおいては精神的要素が大きいと言うことだ。アスペンでは2本目に凄い切れ味を見せて追い込み3勝目を上げた。
マッキニーがワールドカップにデビューした時はまだ14歳の少女だった。78年、16歳の時にワールドシリーズで勝ち国際舞台に顔を出した。ピアンカバロ(ITA)の回転でいきなり3位に入り注目された。だが初優勝までは3年を待たなければならなかった。
80/81シーズンは大回転で3勝を上げ、種目別総合のタイトルを獲得した。
翌81/82シーズンはリモーネ・ピエモンテの回転1勝があるだけでタイトルに縁のないシーズンを過ごした。“2年目のジンクス”というやつである。翌82/83シーズン彼女は爆発した。アメリカ人女性としては初の(そして現在のところただ一人の)総合優勝を獲得したのである。タマラ・マッキニー21歳の冬であった。
このシーズンタマラはサン・ジェルベ(FRA)の大回転で優勝するや、ダボス(SUI)の回転に優勝。ウォータービル・バレー(USA)では2戦あった大回転に連勝、そして富良野で行なわれた最終戦の回転にも優勝して総合優勝に花を添えた。タイトルがかかったレースのゴールには娘を応援するマッキニーの母親フランシスの姿があり、ケンタッキー州のレキシントンの片田舎にある家では、騎手としてホール・オブ・フェーム(名誉の殿堂)入りを果たした障害競走の名騎手、タマラの父親のリーガン・マッキニーがニュースを心待ちにしていた。
マッキニー家は農場を経営してサラブレッドを育てていた。タマラは乗馬が非常に上手く、スキーの魔力に取り付かれなければ、馬場馬術で相当なところに行っていたに違いない。7人兄妹の末っ子だ。姉たちと一緒に絵を描くのも好きだし、水上スキーもこなす多感な乙女だ。体は小さくても(1m60、58s)「スキーには関係ない」と勝ち気でもある。スキーにとって一番大切なことは何かと聞いたらこう答えた。「スキーを楽しむことです」と。
幸福の絶頂にあったタマラをやがて不幸が襲った。娘をオリンピック級の選手にまで育てた父親のリーガン・マッキニーは85年に他界した。キロメータ・ランセで全米のチャンピオンになった兄も交通事故で死んだ。さらに7人の子供全員にスキーを教えた母・フランシスも87年に帰らぬ人となった。両親と兄妹を失ったうえにさらに待ち受けていたのはケガとの戦い。83年を笑って過ごした乙女には苦い経験だった。その彼女が長い苦境から見事な復活を遂げたのは、1989年ベイル世界選手権だった。
ワールドカップ12シーズン目のタマラ・マッキニーが、過去4年間メダル争いから遠ざかっていたアメリカに金メダルをもたらした。1月29日に行なわれたコンビ前半の回転で、スイスのスーパースター、フレニ・シュナイダーに百分の12秒差についていたタマラが、この種目で彼女を抜くには10分の1秒ダウンヒルで勝たなければならなかった。そしてその決戦の日は2月2日に行なわれたコンビ後半の滑降。ベイル “インターナショナル”のトリッキーなコースを果敢に攻めたマッキニーはシュナイダーに1秒84の大差を付けてゴールした。「全てを賭けなければ勝てないことは分かっていました。ゴールに入った瞬間、自分では勝ったことに気づいていませんでしたが、大喚声がそれを教えてくれました。良い滑りができました」
彼女はこれまでワールドカップで18勝していながら、メダルは過去2回の世界選手権の銅メダル2個が最高だった。「83年のワールドカップ総合優勝のタイトルと今回の金メダルとどちらが大切ですか」という質問に対し、「どちらか決めなければいけないのでしょうか」と困惑顔のタマラだった。どちらにせよその二つがアメリカスキー史が始まって以来最強の女子レーサーである彼女の功績として残ることには変わりはない。「ワールドカップで勝ったのは素晴らしいことでした。でもそれは昔のことです。現在こうしてカンバックし、良い成績をだせたことがとても嬉しいです」と興奮が冷めやった後でタマラはこう語った。さらに「誰でもみな辛い時があると思います。でも、私をここまで支えてくれた大切な人達がここにいてくれて本当に幸せに思います。これは、みんなの勝利でもあるのですから」と、タマラ・マッキニーは言った。 |
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