SKI&SKI Top
STENMARK Ingemar (SWE) -1

1956年3月18日 Tärnaby (SWE) 生まれ
身長 180cm 体重 73kg


SKI: Elan
BOOTS: Caber
BINDING: Marker


※ワールドカップ86勝、不出生の天才スラローマー。1989年3月 志賀高原を最後に引退

Naeba 75 SL/2nd Wengen 75 SL/1st
ステンマルク、日本初見参 1975年2月23日 苗場・回転2位 ステンマルクのクラシック初勝利、1975年ウェンゲン・回転
Lake Placid OWG80 GS/1st Lake Placid OWG80 SL/1st
1980年、レークプラシッド五輪。大回転優勝 1980年、レークプラシッド五輪、回転優勝
Kitzbuhel 82 SL/1st Schladming WM82 SL/1st
1982年、キッツビューエル、P・メーアに3秒16の大差を 付けての勝利 1982年、シュラドミング世界選手権、回転1位

 1973年12月9日、フランスのバルディゼールで行なわれたワールドカップ開幕戦の大回転レースに、スウェーデンの北部、ラップランド地方にある「700の湖の村」テルナビィからやって来た一人の若者が、彼のワールドカップ全268戦の最初のスタート台に立った。当時17歳のインゲマル・ステンマルクである。この時は彼の名を知る者はまだ誰もいなかったし、この大回転に優勝したのはまだ20歳にもならないハンス・ヒンターゼア(AUT)でこれが彼の初優勝だったが、ステンマルクはヒンターゼアに遅れること13秒10で46位の成績だった。コーチとサービスマン以外の誰もがステンマルクが後に不世出の天才と呼ばれるレーサーになろうとは想像すらできなかった。それから5570日後、1989年3月10日、まもなく33歳になるステンマルクは志賀高原で行なわれたワールドカップ最終戦の回転レースで15シーズンに渡る彼の戦いを終えた。

 ギネスブックに記載されているステンマルクの記録。ワ―ルドカップ通算86勝(回転40勝、大回転46勝)、さらに2、3位の表彰台は66回。オリンピック金メダル2、世界選手権金メダル3。出場したレース数は268回(これには彼の意志ではないただ1回の滑降と7回のスーパーGを含む)で表彰台の確率57パーセント。いまだにレコードの2位とのタイム差は、1979年ヤスナ(チェコスロバキア・当時)の大回転でボヤン・クリジャイ(JUG)に4秒06、1982年キッツビューエル(AUT)の回転でフィル・メーア(USA)に3秒16。さらに78/79シーズンは全10戦あった大回転に全勝。78年3月、スイスのアローザから80年1月、スイスのアーデルボーデンまでの大回転に14連勝という連勝記録を作った。これに80年2月、レークプラシッド(USA)オリンピックの大回転優勝を含めるとなんと15連勝という偉業を成し遂げたのである。

 ステンマルク神話と呼ばれる一つの物語はワールドカップの歴史に於ける最もファンタスティックな、まさしく神話にも似た物語だ。これは少年のころからスキーに熱中した自然児の物語であり、勝利にも喜ばない完璧主義者の物語であり、常軌を逸した忠誠の物語である。
 インゲマル・ステンマルクは1956年3月18日、北部スウェーデンの片田舎、人口600人足らずのテルナビィに生まれた。そこは首都ストックホルムから1200キロも北に遠く離れた北緯66度のラップランド地方で北極圏に近い別世界である。夏は夜になっても日は沈まず、冬は寒さが厳しく暗い日々が続く。ステンマルクがのちに「何も始まらず何も終わらない」と自分の故郷を表現したように自然以外は何もない静かな所だ。激しいレース生活の中でも、物静かでめったに激することのない性格は、この自然が育てたものであろう。

 しかしこの環境の中でのインゲマル少年のスキーに打ち込む姿勢は決して静かなものではなかった。ステンマルクの最初のコーチはスウェーデン選手権の回転で5位に入ったことのある父エリックだが、この父が夜中の10時すぎに、何度もインゲマルを裏山の600メートル足らずのゲレンデから連れ戻さなければならなかった。少年はゲレンデの木の切り株に、リフトとナイター照明用のカギを隠し持っていたのである。

 インゲマルと日夜一緒にトレーニングに励んだのは同郷で親友のスティッグ・ストランド(ワールドカップ回転で2勝を上げ、現在はスウェーデンテレビのレポーターをしている)である。幼なじみで同じ年齢のこの二人は雪のある限りスキーに打ち込んだ。春になり雪が所々にしかなくなっても(裏山がホルスタインの背中のようになっても、とストランドは形容した)まだスキーを続けていた。しかしインゲマルもスティッグもただただポールを滑ってばかりいたわけではない。
「我々はそのシュプールを絶え間無く研究した。いかに改良できるかを探したんだ。さらに緩斜面では色々な違ったテクニックを試してみた。そしてタイムを取りどれが一番速いかも調べたんだ」。 それはわけ知りの大人が舌を巻くほどの科学的なトレーニングだったのである。さらにストランドは、「今日ではあのようなハードトレーニングは子供の健康管理の面から許されるものではないだろうけれども、質的にも量的にもものすごいトレーニングを積んだ」 と述べている。

 このステンマルクもイタリア人の名将ヘルマン・ノグラーに見い出されることがなかったならば、その才能があれほど見事に花開くことはなかったであろう。ノグラーは北スウェーデンで将来有望なタレントを探していたときに、当時15歳のステンマルクを見た。「その動作は自然に適応し、まるでカモシカが丘を飛び回っているようだった。体全体に感覚装置があり人並みはずれた敏捷性があった。異なった条件の中での素早い反応は、瞬間的な素早くかつ正確な反応だった。ほかの子供達は持ち合わせていないものだった。それは天性のものであり、特殊な頭脳の回路なしにはできることではない」と語っている。

 ステンマルクが引退する1989年までの18年間、ノグラーはステンマルクの良き指導者として長いワールドカップ生活をともに歩んだ。
(つづく)→
Stenmark 2へ