SCHRANZ Karl (AUT)
1938年11月18日 Sankt Anton(AUT)生まれ

SKI: Kneissl

※1972年・札幌五輪追放後・引退・1989年復権

Grenoble OWG68 Val d'Isere72 DH/1st
幻の金メダル、グルノーブル五輪・回転、右はキリー Val d'Isere 72 DH/1st
Photo:Fueda Production Photo:Hiro Yakushi

World Cup Ranking
General

1967/7th, 1968/8th, 1969/1st, 1970/1st, 1972/8th.
Special
1968 DH/3rd, 1969 DH/1st, GS/1st, 1970 DH/1st, GS/4th, 1971 DH/8th, 1972 DH/2nd.
World Championships
1962 Chamonix SL/4th, GS/2nd, DH/1st, K/1st
1966 Portillo GS/3rd,
1970 Val Gardena GS/1st, DH/4th,
Olympic Games
1964 Innsbruck GS/2nd, K/6th.
1968 Grenoble GS/6th, DH/5th.
1972 Sappolo proscription,
World Cup - 12 w. (8 DH, 4 GS)
1. DH: Wengen 69, Kitzbuhel 69, St.Anton 69, Megeve 70, Garmisch 70,
Val d'Isere 72, Kitzbuhel 72-I, II.
GS: Val d'Isere 69, Mt.Ste.Anne 69, Adelboden 70, Val gardena 70,
2. DH: Wengen 68,
GS: Watervill Valley 69,
3. DH: Val d'Isere 70, sestriere 71, Val d'Isere 74,
SL: Megeve 67, Kranjska Gora 69,
GS: Adelboden 69, Kitzbuhel 70, Voss 70,
4. DH: Kitzbuhel 68, Val Gardena 70,
SL: Kitzbuhel 67,
GS: Vail 67, Squaw Valley 69, Madonna 71,
5. DH: Grenoble(JO) 68, Aspen 68, Wengen 70, Megeve 71-I, St.Moritz 72,
SL: Kitzbuhel 68, Kitzbuhel 70,
GS: Hindelang 68, Adelboden 68, Vancouver 70, Val d'Isere 71,

 「アールベルグのライオン」と呼ばれたカール・シュランツは1972年の札幌オリンピックの際、クナイスルスキーの広告に姿をさらしたということでアマチュア規定違反に問われ、当時のアベリー・ブランデージIOC(国際オリンピック委員会)会長の逆鱗に触れ、「動く広告塔」のレッテルを貼られて屈辱的な追放処置を受けた。彼が復権したのは1989年のベイル(USA)世界選手権の時だった。IOCが過去の非を認めシュランツに詫びを入れて復権を宣言したのである。この時シュランツはチロルの小さな新聞社の特派員としてベイルに来ていたが、この報を聞いて号泣した。

 1968年のグルノーブル(FRA)五輪では「霧の中のミステリー」で失格になり、次の札幌では追放と、オリンピックには運のなかったシュランツだったが、世界選手権では'62年シャモニー(FRA)の滑降とコンビ、'70年バル・ガルデナ(ITA)の大回転と計3個の金メダルを獲得している。わずか17歳でガルミッシュ(GER)のAK(アールベルグ・カンダハー・レース)滑降に勝ち('57年)、翌'58年には地元サン・アントンでのAK滑降・回転・コンビを制し、さらに'65年と'69年の地元でのAK滑降を制している。AKではこのほかに'59年のガルミッシュ、'70年のシャモニー滑降と、カール・シュランツは正にアールベルグ・カンダハーの帝王だった。「アールベルグのライオン」と呼ばれる由縁である。ワールドカップでは'69、'70年と2年連続で総合タイトルを獲得、'72年の札幌追放を契機に引退するまで全12勝を上げている。古くからのスキーファンにとってはカール・シュランツの名は決して忘れることの出来ない名前なのである。

 2001年1月28日から2月10日まで、シュランツの地元サン・アントンでアルペンの世界選手権大会が開催された。シュランツはこの招致運動の際には、先頭に立ってプロモーション活動を行って開催に大きく貢献した。一時は地元で疎んじられる時期もあったが、今ではサン・アントンの顔として地元には無くてはならない存在になっている。