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| READ Ken (CAN) |
1955年11月6日 Ann Harbor(CAN)生まれ
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SKI: Fischer
BOOTS: Lange
BINDING: Salomon
※1983年引退 |
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| Wengen 80 DH/1st |
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World Cup Ranking
General
1978/11th, 1979/22nd, 1980/11th, 1981/-,
1982/17th, 1983/23rd.
Special
1980 DH/2nd
World Championships
1978 Garmisch DH/22nd,
1982 Schladming DH/14th
Olympic Games
1976 Innsbruck DH/5th
1980 Lake Placid DH/DNF
World Cup - 5 w. ( 5 DH)
| 1. |
DH: |
Val d'Isere 76, Chamonix 78, Schladming 79, Kitzbuhel 80, Wengen 80-I. |
| 2. |
DH: |
Wengen 80 II, Val d'Isere 81, Val d'Isere
83 II, |
| 3. |
DH: |
Val Gardena 79, Crans Montana 79, 82, Kitzbuhel 82-I+II, 83-II. |
| 4. |
DH: |
Val d'Isere 78, Laax 78, Val d'Isere 83 I,
, |
| 5. |
DH: |
Val d'Isere 82, Val Gardena 83 I, Sarajevo
83, |
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1970年代の後半から80年代の始めにかけてワールドカップのダウンヒルシーンを震撼させた「クレージーカナック」と呼ばれた男たちがいた。“ジャングルジム”ジム・ハンターを筆頭にケン・リード、デーブ・アーウィン、トッド・ブルッカー、スティーブ・ポドボルスキー、クリス・ケントらのダウンヒル軍団である。彼らの活躍は1975年12月のバル・ディゼール(FRA)に於けるケン・リードの初優勝に始まり、1984年1月のガルミッシュ(BRD)に於けるポドボルスキーの最後の優勝まで続いた。
1975年3月、カナダ、ブリティッシュ・コロンビア州のウィスラーで行なわれる滑降に出掛けたヨーロッパの選手達は、カナダの選手達がカリカリに凍ったアイスバーンのコースを,まるでジェットコースターのようにぶっ飛ばす姿を見て度肝を抜かれた。それはまるでそれまでの滑降の常識をくつがえすかのような激しいアドベンチャーだった。このレースは悪天候によって中止になったが、カナダの選手達の評判は一気に高まった。
1974年頃からカナダのナショナルチームは経済的な事情により、金のかかる回転よりも、より少ない資金ですむ滑降の強化に方針を転換した。スイスのローランド・コロンバンが回転から滑降へ転換して成功したことに範を取り、選手達の大部分は回転から滑降へと方針を切り替えたのである。常識的には回転よりも滑降の方に金がかかりそうだが、カナダにはウィスラーの自然の地形を生かすことにより、さほどコース整備をせずに夏もトレーニングできる氷河があった。そこで徹底的な練習を積んだのである。山を降りるときはブロンコの屋根の上にスキーを付けたまま乗り、猛スピードでオフロードを飛ばしスピードとバランスの訓練に励んだ。
その効果は1975/76シーズンに現れた。1975年12月、ケン・リードがバルディゼール(FRA)で初優勝を上げ、デーブ・アーウィンが4位に食い込んだ。その当時はフランツ・クラマー(AUT)の全盛時代である。クラマーの牙城を切り崩したのがカナダということで大きな話題になった。年が明けて1976年1月、最初のシュラドミング(AUT)の滑降では、今度はデーブ・アーウィンが初優勝を飾った。スキー大国のヨーロッパの選手達はまさに顔色なしだった。
そのカナダの選手達にも悩みはあった。スキー産業を持たないカナダでは、スキー用品は常に外国製を使わなければならないという悩みである。カナダの選手達は常に漏らしていた。「我々にはトップのスキーが回って来ない」と。カナダの選手にスキーを提供しているメーカーでは「そのようなことはない」と否定し続けたが、端から見てもその違いははっきりしていた。1982年2月、シュラドミングで行なわれた世界選手権の滑降。優勝したのは地元オーストリアのハルティ・バイラーターだったが、優勝の呼び声高かったカナダ勢は9位のスティーブ・ポドボルスキーが最高という不甲斐ない成績で敗退した。ケン・リード、ポドボルスキーともにバイラーターと同じメーカーのスキーを使用していたのである。ゴール前の急斜面に至るハイスピードターンではバイラーターのスキーは“切れ”ていたが、カナダ勢のスキーは同じメーカーのスキーとは思えないほど“ずれ”ていた。「テクニックの違いではない,板の違いだ」と、これも当時大きな話題になった。
ケン・リードにはこのような不運な話題がたえず付きまとっていた。1980年のレーク・プラシッド(USA)オリンピックでは、やはり優勝候補の筆頭に上げられていながら、スタートと同時にビンディングが外れ痛恨の途中棄権に終わっている。
また1979年12月、ケン・リードはモルジン(FRA)でワールドカップ滑降第4勝目を挙げた。2位にはナショナルチームに上がってきたばかりのスティーブ・ポドボルスキーが入った。カナダ勢のワン・ツーフィニッシュでゴールはわきに沸いた。しかしケン・リードの1位は取り消されてしまった。リードが着用したデサントのダウンヒル・ワンピースにFISの通気料検査の認定マークがついていなかったというのが理由である。当時デサントのダウンヒル・ワンピースは“魔法のスーツ”と呼ばれ、選手達はこぞってこのワンピースを着たがった。前年、スイスチームが初めて使用し、その魔法のような効果に周囲は驚いた。オーストリアチームが風洞実験をしたところ、2秒は速いという結果がでた。キッツビューエル(AUT)のハーネンカムコースで実際に滑って計測したところ、風洞実験と同じ結果がでた。したがって1979年のレークプラシッド(USA)に於けるプレ・オリンピックの滑降では、スイス以外の国の選手達はこのワンピースをわざわざ買って使用した。結果は1位から9位までをデサントのワンピースが占めた。翌年の1980年シーズンはレークプラシッドのオリンピックシーズンで、カナダもデサントからワンピースの提供を受けることになった。目立ち過ぎたデサントのワンピースが、何らかのかたちで標的にされたのは十分に予測できる。なにしろスキー産業の中心は当時ヨーロッパにあった。日本のメーカーがヨーロッパよりも優れたものを選手に提供できるという事実は、ヨーロッパのメーカーにとってはいたく自尊心を傷つけられる事件だったのである(実際はこのスーツはスイス製だったが)。ケン・リードのウェアは後に通気量検査が行なわれたが勿論規定の数値内にあった。リードの失格で繰り上がり優勝したスティーブ・ポドボルスキーはこれがワールドカップ初優勝だった。
ケン・リードの不運はもう一つある。彼のアイディアで取り入れたワールドカップ滑降の予選制(クワリフィケーション・ダウンヒル)。本戦の前日に行なわれる予選を通過した30人の選手だけが本戦に出場できるというもので、アイディアは良かった。しかしウェンゲンで行なわれたこのシステムの最初のレースで、オーストリアのラインシュタドラーが非業の最期を遂げた。ケン・リードに非はない。何の準備期間もおかずに性急に取り入れたFISに非がある。
ケン・リードはワールドカップ滑降で全5勝を挙げ1983年をもって引退した。現在はFISアルペン委員会の要職にあり、カナダ・オリンピックコミッティのメンバーであり、カナダスキー連盟の会長である。 |
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