MINAGAWA, Kentaro (JPN) 皆川賢太郎(チーム・アルビレックス新潟)
1977年5月17日 新潟県湯沢町出身
身長 173cm 体重 77kg
Blog:

SKI: Atomic
BOOTS: Atomic
BINDING: Atomic


ParkCity97 SL Nagano OWG98 GS
Park City 97 SL長野オリンピック'98 大回転
Kitabuhel 00 SL/6th-1stRun Kitzbuhel00 SL/2ndRun
Kitzbuhel 2000 SL / 6th 1st run Kitzbuhel 2000 SL / 6th 2nd run
Kitzbuhel01 SL Stanton WM01 SL
Kitzbuhel 01, SL/ 8th St.Anton WM 01, SL/ 10th (↑クリック拡大)
Beaver Creek 05 SL/18th Kranjska Gora 05 SL/7th
Wengen 06 SL / 4th
Torino OWG06 SL/4th

MinagawaFace
KentaroFace
World Cup Ranking
General
2000/70th, 2001/55th, 2002/90th, 2003/118th, 2005/60th, 2006/37th, 2007/116th,
Special
2000 SL/30th, 2002 SL/35th. 2003/SL/44th. 2005 SL/21st. 2006 SL/11th. 2007 SL/46th.
World Championships
2001 St.Anton. SL/10th
2003 St.Moritz. SL/DNF.
2005 Bormio. SL/DNF.
Olympic Games
1998 Nagano. SL/DNF, GS/DNF.
2002 Salt Lake City. SL/DNF.
2006 Torino. SL/4th.
World Cup
4. SL: Wengen 06,
6. SL: Kitzbuhel 00, Yong Pyong 00, Sestriere 01, Schladming 06,
7. SL: Kranjska Gora 05, Shigakogen 06-II,
8. SL: Kitzbuhel 01,
10. SL: Schladming 01,
11. SL: Sestrere 05, Are 06,
12. SL: Kitzbuhel 06,
13. SL: Are 01, Beaver Creek 06, Levi 07,
14. SL: Schladming 02, 05, Shigakogen 06-I,
16. SL: Aspen 02,
18. SL: Beaver Creek 05,
20. SL: Yong Pyong 03,
21. SL: Chamonix 05,
22. SL: Madonna 06,
24. SL: Kranjska Gora 02,
28. SL: Adelboden 02, Kranjska Gora 03,

 2000年1月23日、キッツビューエル(AUT)で行なわれた第60回ハーネンカムレースで、皆川賢太郎は6位に入賞した。スタートゼッケンは60番。
 1本目はトップのベンジャミン・ライヒ(AUT)にジャスト1秒遅れの17位につけた。
 「1本目のラップはライヒの49秒77、で、2位は誰なんですか?」。マリオ・マット(AUT)、49秒99。「あ、マリオですか、あいつはヨーロッパカップとかFISレースでライバルなんですよ」、しめた!という表情で元気良く2本目のインスペクションに飛び出していった。
 2本目は14番スタート、15位キープを目標にリラックスして自分なりのレースをやったという賢太郎。この時点でのベストタイムを叩き出した。だがこのタイムを後続の選手たちは抜くことが出来ない。スコアボードには何時までも一番上に「MINAGAWA」の名が表示されている。スタートハウス脇でラスト5番に滑るユーレ・コシール(SLO)はスピーカーを聞いて怒鳴った。「何だって、日本人がリーダーだって、なんて言う奴なんだっ」。

 19番スタート、1本目12位のオーレ・クリスチャン・フルセット(NOR)がリーダーを皆川から奪うまでゴールゲート脇に皆川は立っていた。
 「いや、ただ嬉しかったですね。下見でコースセットが難しくないのが分かって、自分なりの滑りが出来たし、ひょっとして10番以内になれるんじゃないかとも思いました。スキーレースというものは楽しまなくてはいけない、失敗して落ち込んでいるばかりがレースではないことを初めて体験しました」。結果、世界の強豪を後目に6位にまで上昇した。この記録はワールドカップアルペンで6位以内に入賞した6人目の日本人選手である。
 皆川賢太郎はワールドカップでは一番短い168cmのサロモンスキーで6位にたどり着き、第60回ハーネンカムにセンセーションを巻き起こした。
 このシーズンは2月26日、ヨン・ピョン(韓国)のスラロームでも6位に入賞、ワールドカップ・スラローム30位にランクされた。

 2001シーズンはセストリエール(ITA)で自己タイの6位、キッツビューエル(AUT)で8位、シュラドミング(AUT)で10位、サン・アントン世界選手権では回転で10位だった。初めて第1シードに入って迎えた志賀高原のスラローム2連戦では2戦とも途中棄権だった。
 2002シーズンはシーズンイン直前に足首の捻挫で調整が遅れた。ソルトレーク・オリンピックに間に合うかどうかが心配されたが、直前のシュラドミング(AUT)でのナイター・スラロームで、2本目にベストタイムを奪いトータルで14位に入った。だが2月23日に行なわれたオリンピック・スラロームでは、1本目にゴール直前で痛恨のカタハン。そして3月、FISジャパンシリーズのスラロームで膝の靱帯を断裂。

 2004年8月2日、マテリアルをアトミックに変更と、アメア・スポーツより正式発表。アトミック3点セットで2004/05シーズンに挑む。
 2004/05シーズンはNor-Am2連勝でワールドカップ初戦のビーバー・クリーク(USA)に臨み、35番スタートから1本目14位、トータルで18位と順位は落としたが久しぶりのポイントゲットで好調ぶりをアッピールした。世界選手権は2本目途中棄権に終わったが、クラニスカ・ゴラ(SLO)では7位と'01年のキッツビューエル(AUT)以来の一桁入賞を果たし、佐々木明(ガーラ湯沢)とともにレンツェルハイド(SUI)で行なわれた最終戦に出場した。回転総合順位21位、WCSLは22位で2005シーズンを終了した。

 2006年1月15日、ウェンゲンで行なわれた第76回ラウバーホルン大会のスラロームで自己最高位の4位に入賞した。1本目、26番でスタートした賢太郎はトップに0秒95秒遅れの7位に付けた。2本目、24番目にスタートした賢太郎はゴールした時点でベストタイム、トップに立った。これで7位以上は確定。次のジャン・ピエール・ヴィダル(FRA)は皆川を抜くことが出来ず、皆川は6位以上を確定。カレ・パランダー(FIN)が皆川の上に入り、続くジョルジオロッカも皆川の上に付けた。テッド・リゲティは皆川の下に、これで皆川は5位以上を確定した。アロイス・フォグルがパランダーの下に付け、1本目トップのライヒを待つ。だがライヒはまたも失敗、皆川の4位が確定した。
 皆川賢太郎は2000年12月、セストリエール(ITA)での6位入賞以来の自己最高位の4位である。2本揃えての上位入賞が素晴らしい。「ソルトレークに置いてきたものを取り返しに行く」とSAJの「TAKE OFF 2006」で大勢のプレスを前にして語っていたが、いよいよ現実味を帯びてきた。
 「1本目は順調に来て急斜面入り口でスリップ、いつもならこれでアウトでおしまい。だが今日は懸命にリカバリーしてそのあとは上手くいきました。2本目はコースセットは易しかったが押さえた感じもある。でも良い滑りは出来たと思っています。今季自分の滑りというものが見えてきて、努力することが良い結果に結びつくと自信を持てるようになってきました。(怪我からの復帰に)時間もかかったけど、今は自分の型が出来て、より世界が近ずいてその中で結果も出せるんだと。メダルへの自分の可能性を試すことも出来るんだとそう思っています。チームはそれぞれに皆気合いも入っています。我々はみんなトップを追う立場で攻撃する側にありますからね」と語った。

 2006年2月25日、トリノ・オリンピック男子回転。皆川賢太郎(アルビレックス新潟)は、乾坤一擲の大勝負で1本目トップに7/100秒差の3位、2本目はライナー・シェンフェルダー(AUT)にわずか3/100秒に及ばずに4位で惜しくもメダルを逃した。オリンピック、世界選手権を通して4位という成績は、猪谷千春さん(現IOC副会長)の、1956年、コルチナ・ダンペッツォ(ITA)オリンピックのスラローム・2位、1958年、バドガスタイン(AUT)の世界選手権のスラローム・3位、同じくコンビ・4位以来の成績である。
 2002年3月に膝の靱帯断裂からの復帰には賢太郎自身の血のにじむような物語があった。彼自身のブログに詳しいのでそちらをご覧頂きたい。
 →ブログ「皆川賢太郎の話」2006年3月1日書き込み

 2007シーズン、またまた皆川選手をアクシデントが襲った。レヴィ(FIN)の開幕戦スラロームで13位に入ったあと、オーストリアの氷河でトレーニング中に靱帯を引きちぎり、世界選手権のシーズンをリハビリで過ごした。