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| MAHRE Phil (USA) |
1957年5月10日 Yakima,WA.(USA)生まれ
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SKI: K2
BOOTS: Lange
BINDING: Marker
※1984年引退
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| Lake Placid OWG 80 SL/ 2nd |
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| Sarajevo OWG 84 SL/ 1st |
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| Wengen SL |
Kitzbuhel SL |
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World Cup 1982 |
World Cup Ranking
General
1976/14th, 1977/9th, 1978/2nd, 1979/3rd, 1980/3rd,
1981/1st, 1982/1st, 1983/1st, 1984/15th
Special
1978 SL/3rd, GS/3rd, 1979 SL/2nd, 1981 SL/2nd, GS/3rd,
1982 SL/1st, GS/1st, 1983 GS/1st.
World Championships
1978 Garmisch GS/5th,
Olympic Games
1980 Lake Placid SL/2nd, K/1st.
1984 Sarajevo SL/1st.
World Cup - 27 w. (7 GS, 9 SL, 11 K)
| 1. |
GS: |
Val d'Isere 77, Stratton Mountain 78, Aspen
81,83,
Kranjska Gora 82,
Vail 83, Furano 83. |
| SL: |
Sun Valley 77, Chamonix 78, Jasna 79, Are
81, Furano 81,
Madonna 81, Wengen
82, Jasna 82, Montgenevre
82 |
| K : |
Crans Montana 79, Val d'Isere 79,81, Garmisch
81,
Kitzbuhel 81,82,83,
St.Anton 81,83,
Groeden 81,
Markstein 83 |
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フィルとスティーブの双子のメーア兄弟はアメリカが生んだ最大のスターだった。二人は1957年5月10日、ワシントン州の寒村ヤキマに生まれた。父親がヤキマの近くホワイト・パスのスキー場でディレクター謙スキー教師をしていた関係で、9歳の時にホワイト・パスに移り住んだ。スキーの手ほどきは当然父親から受けた。二人のワールドカップデビューはステンマルクの2年後、75/76シーズンからだった。二人ともテクニック系を得意とするレーサーだったが、滑降にも出場してコンビのポイントを稼ぐことの出来るオールラウンド・レーサーでもあった。
この二人は当然のことながらまったく瓜二つで、我々プレスを大いに悩ませたものである。スラロームパンツかゴーグルの色が彼らを見分ける材料だったが、茶目っけたっぷりにそれらを時々取り違えて来たりして、間違えて名前を呼んだりすると「俺はフィルじゃない」などと不機嫌そうに答えたりして,なかなか面白いキャラクターを持ったツインブラザースだった。
彼らのデビュー戦は'75年12月バルディゼール(FRA)の大回転だが、そのとき既にステンマルクは彼らの才能を見抜いていた。'75年の10月、イタリアのバルセナレスでアメリカチームとスウェーデンチームは合同キャンプを行なった。とは言っても選手はステンマルクとメーア兄弟の3人だけだった。どちらも小さなチームだった。このときメーア兄弟はステンマルクのテクニックを徹底的に盗みまくった。寡黙で静かなステンマルクと陽気でよくしゃべるメーア兄弟とは、このときからお互い良き友人として、またライバルとしてワールドカップを戦うことになるのだが、しかしメーア兄弟にとってはステンマルクは「犯すべからざるもの」として、別格の畏敬の念の強い存在として映っていた。
フィルの初勝利は'76年12月、バルディゼール(FRA)の大回転で、ステンマルクを2位に従えての勝利である。回転での初勝利は'77年3月、サン・バレー(USA)だがこのときもステンマルクを2位に従えている。一方スティーブの初勝利は'78年3月、ストラットン・マウンテン(USA)の回転で、これまたステンマルクを2位に従えていた。メーア兄弟とステンマルクとのからみはワールドカップをスリリングで興味深いものにした。
二人が好んで行なった陸トレはバスケットボールとモーターバイクによるモトクロス。これは彼らの使用する「K2スキー」のサービスマンでありコーチとしても行動を共にした、「スヌーズ」ことエド・チェイサーの指示によるものである。「嫌いなランニングを何時間続けても意味がない。それよりも好きなトレーニングを徹底的にやるべきだ」というのがエドの考え方で、フットボールと野球の選手が両立するアメリカならではの考え方であろう。
そのトレーニングだが,これが半端じゃなかった。バスケットは最低でも3時間、ときには5時間に及ぶこともあった。始めは付き合っていたチームメイトも彼らの激しさにはついて行けず、一人抜け二人抜けして終には彼ら二人だけで延々と続けるのである。そして良く怪我をした。捻挫などは軽いほうで,靭帯を切ったり骨折したり。またモトクロスの方は、ヤキマに彼らだけの専用コースを作り、これも半端じゃないトレースを繰り返していた。こちらの方も怪我が絶えず、たまりかねたアメリカスキー連盟は彼ら二人にバスケットとモトクロスの禁止令を出したほどである。もっともそれでやめるような二人じゃなかったが。
ステンマルクが「エランスキー」をメジャーにしたように、メーア兄弟もまた「K2スキー」をメジャーにした。ワシントン州シアトル近郷の小さな島、バション・アイランドにある小さな工場で作られたこのスキーは,ヨーロッパ製のスキーが全盛の当時,ひときわ異彩を放っていた。ヨーロッパのスキーにはない大胆なデザインは、いかにもアメリカらしい奔放さが溢れていたし、性能はツィンブラザースの活躍が如実に物語っていた。当時ちょっと気の利いたヨーロッパや日本のファンはこぞってこのスキーを買ったものである。「皆とは違うんだぞ」といった優越感にも似た差別意識がスキーヤーの心をくすぐったのである。
彼らはヨーロッパの選手達とはかなり異質なキャラクターをもっていた。ハンバーガーと薄いコーヒー以外の食生活に慣れるまでにはかなり時間を要したし、なによりも人生におけるスキーの位置付けが異なっていた。ステンマルクに散々いたぶられたときには「スキーだけが人生ではない」(フィル)、「スキーよりも恋の方が大事だ」(スティーブ)という捨て台詞を残して、ワールドカップを捨てアメリカに帰ってしまったことも度々だった。そして何食わぬ顔でまたひょっこりワールドカップに復帰したり。ヨーロッパ諸国のチームなら除名処分になりかねない彼らの行動も、アメリカチームが彼ら二人だけのチームだったから出来たことである。しかしこれには綿密な計算が働いていた。
フィル・メーアは双子の兄スティーブとともに'73年に16歳でアメリカナのショナルチームに加えられた。'73、'74年は骨折事故により出遅れていたが、'75シーズン、チームに復帰するとすぐにナショナル選手権の大回転に優勝、'75/76シーズンからワールドカップの遠征チームに選ばれた。しかし,道はイバラだった。
'78/79シーズンはルール改正でステンマルクが不利になり、ペーター・リューシャー(SUI)を追って終盤を迎えていた。多くの関係者が「フィルの逆転」を口にし始めたころ、レークプラシッドの大回転で左足を骨折してしまった。苛立つ表情でスノーボートで引かれていったフィルだったが、それまでもスティーブとともに多くの怪我に泣かされていた。このことがまたフィルの性格をより強固なものにしたということはあるが……
フィルにとってのハンデはまだある。アメリカではスキーが長年、マイナーなスポーツであるということだ。フィルは言っている。「フットボール、野球,バスケット…と数えてみればスキーなんてアメリカでは7番目くらいだ」と。だからアメリカのスキーはいつも財政的手段を欠いていた。トップ・ダウンヒルレーサーとして認められていたアンディ・ミルも,何度も膝を痛め、'80年の夏にはコロラドに持っていた家を売らなければならなかった。引退したときのために借金して手に入れた家を。
精神的な問題も大きい。トレーニングも含めると半年近くもかかるヨーロッパでの生活だ。アメリカ選手は違う環境の中で耐えて行かねばならず。アメリカ流の生活ができず途方に暮れてしまう。ホームシックだ。メーア兄弟もこれには悩まされた。これらのことがフィルをしても数年間,最高のレースをする妨げとなっていた。「人はハンバーガーやホットドッグと違う食べ物でも生きて行けると理解してから、我々も良い成績を挙げることが出来た」。フィルが困難を乗り越えてこられたのは、その激しい「ファイティング・スピリット」のたまものといっていいだろう。
'81、'82、'83年とフィルは連続3年間ワールドカップ総合Vを果たしたが、その飛躍にはもう一つ理由がある。メーア兄弟は「双子はいつも一緒がいい」にならってか、'79年の夏それぞれ結婚した。ところがフィルの方は数日で離婚してしまった。その精神的な不安定が影響して'79シーズンはふるわなかった。'80年の秋、フィルは新しいフィアンセを見つけた。そして栄光への上昇が始まった。「オリンピックの金メダルを束にしてもらったよりも嬉しい」。
アメリカに初めてクリスタル・トロフィーをもたらしたフィル・メーアは喜びを爆発させた。1981年3月28日、最終戦のラークス(SUI)の大回転でメーアはステンマルクをついに6点抜き初の総合優勝を成し遂げた。ワールドカップ開始14年目で男子のクリスタル・トロフィーは初めて大西洋を渡った。
「もはやワールドカップはぼくの手の中にある」。'81年3月7日、アスペン(USA)の大回転で勝利したときフィルはしっかりと言い切った。レースでは明日のことはわからない。普通,選手達はベストを尽くすとは言っても勝つとは言わない。それほど厳しい世界だということをよく知っているからだ。それでもなおフィルは望んでいることを大っぴらに口に出しそしてそれを成し遂げてしまった。
だがフィルは,アスペン以後、産みの苦しみをたっぷりと味わされた。3月15日、富良野での回転に完勝したあと、残りの3レースに1勝すれば文句なしに総合優勝。2度ある大回転で2位1回、あるいは1度ある回転で3位に入れば栄冠を取れる。フィルにとってはそんなに難しいことではなかった。
3月24日、ボロベッツ(BUL)の大回転。1本目3位のフィルは2本目、過度の大胆さが災いしてバランスを崩した。5位で1点しか加算できなかった。続く3月25日の回転では信じられないことが起こってしまった。絶好調の新星アレクサンドロ・ツィーロフ(SOV)が勝ったため、総合Vを争っていたステンマルクが最後の加点(5点)のチャンスを失ったのはラッキーだったとしても、3位に入ったフィルのすぐ上の2位に双子の兄スティーブが飛び込んでしまったのだ。ステンマルクが加点できなかったため、もしスティーブがいなければここで総合優勝は決まっていたのだ。フィルにとってはまさに悪夢のような事実だった。
スティーブは数週間前から冷やかし気味に「お前がポイントをかせぎたいなら、俺と戦う必要があるんだぜ」とフィルにプレッシャーをかけていた。不思議な兄弟である。そしてサービスマンの「スヌーズ」がなげく。「毎晩のように夢をみた。決定的なレースでスティーブがフィルを追い抜いて、ワールドカップがフイになるんだ」
フィルに残されたのは最終戦ラークス(SUI)の大回転ただ一つ。ここで3位以内に入らなければ総合Vは3年ぶりにステンマルクの元に行く。おまけに新しい敵が現れた。「ステンマルクが勝つように滑る。フィルが3位以内に入るのをつぶすために我々のチームはがんばる」。ソビエトのツィーロフが記者団にはっきりと宣言した。富良野の大回転、ボロベッツの回転、大回転に連勝し赤丸急上昇中のツィーロフがフィルの壁になろうとしているのだ。東西の冷戦真っただ中とはいえ、これではまるで「スキー戦争」である。
3月28日、4カ月に渡るロングランの雪のサーキット「白いサーカス」に最後の時がきた。ラークスに集まった観客はただフィルとステンマルクの運命だけを見に集まってきた。3位以内か4位以下か,転んだら終りだ。1本目ベストタイムを出したのはステンマルク。フィルは0秒03差で2位につけた。2本目二人ともツィーロフに抜かれたが,フィルは無謀とも思えるアタックをかけ,ステンマルクを抜き2位をがっちりつかんだ。3位にステンマルク。Vの分かれ目だった4位にはスカイエム(NOR)が入ったがそのタイム差はたった百分の28秒。0秒28差の輝くクリスタルトロフィーだった。フィルは喜びを爆発させ、少し離れたところでステンマルクは虚空を見つめたまま身じろぎもしなかった。
フィル・メーアとインゲマル・ステンマルク、この二人はお互いを親友だと思い,尊敬しあっている。だからこそ,またこのフィナーレがピステを囲む人達の胸を打った。大きな怪我、長期遠征の苛酷さ、人生のトラブルと戦ってフィルは栄光の座についた。苦闘の中でも少しも失わなかった明るい素顔と強気な性格が実に清々しかった。ラークスで勝ったあと、しみじみと語った言葉がそれだけに重みがある。「長いあいだ,勝利はぼくの手からすり抜けていった。それがしっかりとこの冬やってきたんだ」
'83/84シーズンはメーア兄弟の最後のシーズンになった。サラエボ五輪の年である。しかしこのシーズンは出だしから二人の調子はあまり良くなかった。ステンマルクとジラルデリが快調に飛ばし、メーア兄弟は「スキーだけが人生ではない」という捨て台詞を残して12月半ばでアメリカに帰ってしまった。年が明けて1月のパルパン(SUI)の回転ではスティーブが優勝したにもかかわらず、前代未聞のゼッケン取り違え事件で失格したり、キッツビューエル(AUT)の回転ではフィルが1本目ベストタイムを奪いながら、イージーミスでコースアウトしたりなどで、メーア兄弟は完全に死んだ,とだれもが思ったのも無理は無い。
オリンピック前までに7戦あった回転のうち、ステンマルクが3勝、ジラルデリが3勝を上げていたが、この二人にはサラエボ・オリンピックへの出場権がなかった(ステンマルクはBライセンス=プロ=のため、ジラルデリはオーストリア国籍ながらルクセンブルグから出場するジプシー選手のため)。したがって金メダル最有力候補だったフィルとスティーブがこのような体たらくでは誰にでも勝つチャンスがあるとばかり、すべての選手が色めき立ったのも無理はない。
しかしオリンピックが終わってみるとこの二人,ちゃんと回転でフィルが金,スティーブが銀メダルを獲得していた。1月にアメリカのコーチが「あれはブラフだよ」と言っていたが、絶不調は見事なカモフラージュだったのである。12月にワールドカップを捨てて国に帰ったのは、テクニックの再点検のためで、彼らは2週間に渡るプライベートキャンプを構えて体調を整えていた。すべてはオリンピックの金メダルへの執念がなせる技である。
彼らは宣言どおり兄弟でオリンピックの金銀のメダルを独占したが、しかしメジャーになったのは彼らだけで、アメリカにおいてはスキーレースはいまだに7番目のスポーツである。 |
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