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| Val Gardena 74 DH/1st |
Laax 78 DH/1st |
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| Wengen DH |
Kitzbuhel DH |
フランツ・クラマーはきびしい練習のすえに恐怖感を失ってしまったかにみえる。ただひたすらに斜面を落下する。人よりたった百分の1秒速くゴールを切るために。ただ落下するだけではだめだ。どこでブレーキをかけるかが勝負を決する。クラマーにはそれができる。その結果がほかの選手と大きな差を付けることになった。彼は持って生まれたとしか言いようのない鋭い神経を持っていた。
74/75,そして75/76シーズン,17戦して負けたのは3回だけ、実に14勝を上げた。さらに76年インスブルック五輪では金メダルを獲得した。77/78年のシーズン,クラマーは開幕第1戦のバルガルデナからウェンゲンまで5連勝を飾り、「彼は負けるなんて知らないのではないか」と言われるくらいの圧倒的な力量を示した。それぞれの勝利が1秒近くの大差を付けている。男子の滑降はもっぱら誰がクラマーを破るかに焦点が絞られていた。
78年1月30日のモルジン(FRA)、新雪の積もった晴れた空の下,クラマーはついにルッシの軍門に下った。「私はあまりにもクラマーに勝つことばかりを考えすぎて,自分の能力を最大限に発揮できなかった。今日は彼とではなく、自分のスキーと戦うことができた」とルッシ。
ルッシの美しいまでの完璧なフォームは定評があったし、彼はまたそのフォームを理論的に説明できるだけの理性も持っていた。ルッシの洗練されたフォームに対し、クラマーはギャップなどでむしろ空気抵抗に逆らうかのような大きな構えを見せる。しかしクラマーは速かった。それは技術的なポイントを制御する完全な体力と神経があるからだ。滑降は情熱的なものだといわれる理由もここにある。二人とも,滑降はただスピードを上げるばかりが能ではなく、スキーをいかにコントロールするかにかかっていると異口同音に言っている。「雪がソフトすぎた。すべてのレースに勝つことは不可能だ」。ルッシの73年サン・アントン以来の勝利の前でクラマーは残念そうにポツンと言った。心の張りが取れたかのように,翌日のレースもチームメイトのワルヒャーに敗れた。このあとアメリカでも連敗したクラマーは弟の事故もあってすぐに故郷に帰ってしまった。
翌78/79年は,シーズン前からクラマーの姿は暗い予感に満ちていた。練習していても彼はよく仲間たちと離れて一人物思いにふけることが多かった。心痛む問題もあった。昨シーズン弟のクラウスがひどい転倒をしたがいまだに下肢がマヒしている。父親のように慕っていた叔父も死んでしまった。人生にのしかかった重い試練にさらに自分の技術に対する懐疑がつのる。「彼はトレーニングではいつも同僚に負けている」とコーチのウド・アルブルが言うように"帝王"の座に影が差していた。
12月17日のバルディゼールの第1戦、前年の転倒をものともせず後半スピードを上げてクラマーは勝った。やはり"本番はクラマー"と印象づけたが、前半のラップは同僚のグリスマン、プランクら4人が上回っていた。その1週間後のバルガルデナから彼の辛い"連敗街道"が始まった。バルディゼールでも本来のフォームではなかったが、ここでもゼッケン1番でゴールすると「今日は自分の日じゃない」とあきらめた。
続いて自分の好きなコルチナ・トファナのコースで負けたときは、もういつもの眼の輝きを失っていた。プランクの完璧な連勝もさることながら、練習も十分でないルッシの2位に彼の動揺は一層深まった。クラマーは最後のS字カーブでその衰弱を見せていた。決然と攻撃的だった姿はなくリスクを犯さない平凡なフォーム。
1月20日、キッツビューエルの3敗目、4位。クラマーは泣いた。それは自分が偉大なレーサーから普通の選手に落ち込んだ苦しみをにじませていた。彼の確信と美しいフォームはとめども無く崩れ去っていく。シャモニーのAKでは13位まで転落した。だがクラマーは敗北を認めようとしなかった。自分を後ろから追いかけて来た者たちの何人かが自分を追い抜いたことを…。
「失敗なんかなかった。何で負けたか分からない」。勝利の長い連続のあと連敗したチャンピオンは大変な苦痛を味わう。立ち直った者はカール・シュランツ以外ほとんどいない。クラマーのゼンマイは切れ,途方にくれる一人の男になった。シャモニーの滑降のあと,彼はスキーを雪の中に放り投げ、初めて自分の用具に文句を言った。「自分をとがめることは無いんだ,負けたのは俺のせいじゃない」。
クラマーにとって用具のトラブルがあったのは事実だ。メーカーの商業政策から、彼の嫌いなトップに穴の空いた滑降用のスキーを履くように要求され続けていた。彼は勝ち続けることによってそれを拒否していた。だがこのシーズンはもはやそれができなかった。クラマーはシャモニーの後1カ月間練習に励み、このシーズン最終戦のラークス(SUI)にやってきた。
ラークスの第1戦は最も悲劇的だった。13番スタートのクラマーは前半のラップも取り1位でゴールした。第1シードが終わって勝ちが決まったと思った矢先、16番スタートのウリ・スピースが彼を鮮やかに抜き去ってしまった。「コースが急に速くなったので負けた。練習のときの状態ならスピースを2秒以上も離したはずだ。一番強いのに負けるのは我慢ができない」と、クラマーは不当に負けたと主張しているが,最後の壁での二人の違いは歴然としていた。クラマーはバランスを崩し,空気を抱いてゴールしたが、スピースは空気を裂いてゴールした。
それでもラークスの第2戦、シーズン最後にクラマーは勝ちを拾った。彼は狂喜した。「カーブを処理できない、トータルに滑れないなどと言った奴はどこにいる。コースの端から端まで可能性の極限で勝利をつかんだ」。だが、完全に滑ったクラマーはエリック・ホーケル(NOR)に百分の3秒勝ったに過ぎない。途中ラップを見ればホーケルを追い越したのはゴール前100メートルだ。しかもホーケルはゴール前スキーを雪のかたまりにぶつけてバランスを崩し百分の3秒以上は損をしている。クラマーは勝っても自分を見失っていた。「私は完全じゃない。ク
ラマーは勝つことに値する男だ」と,さわやかに語るホーケルとの表現の差がシーズンすべてに渡って続いたクラマーの苦しみを表わしていた。
クラマーはラークスにおける最後の1勝で75年以来4年続けて種目別滑降のチャンピオンの座をなんとか確保した。クラマーはシーズンが終わって落ち着いてから自分についてこうつぶやいた。
「ダウンヒルに対する愛情でもって,最後の判断をしなければならない」。
73年のシュラドミングから78年3月のラークスまで、空前絶後の23勝を記録したフランツ・クラマーも79年からはただの男になってしまった。それではクラマーの大胆さはもう通じないのか。大胆さは通じる。それがクラマーになくなっただけだ。かつてはコンパクトに身をかがめ弾丸のように滑ったクラマーがグライダーのように羽根を広げて滑るようになった。79年2月、ペーター・ミューラー(SUI)が初優勝を飾ったビラールスではついに40位にまで落ち込んだ。72年にバルガルデナでデビューしたときですら30位だったのに。とめどない転落。この年3月、プレオリンピックのレークプラシッドで後輩のペーター・ビルンスベルガーに19位と敗れたクラマーはついにこう言わざるを得なかった。
「俺がこんな遅いはずはないとシーズン途中は考えていた。しかし,遅かったのだ。スピードの遅い選手になるほど惨めな運命はこの世にない……」
1981年12月7日、フランツ・クラマーが帰ってきた。かろうじて種目別滑降のタイトルを獲得した78年ラークスの勝利から1366日後のバルディゼール滑降第1戦。引退さえ噂されていたフランツ・クラマーがベストタイムを出し23勝目を上げたのである。この間24戦も勝ち星がなく表彰台には一度も上がっていない。80年のレークプラシッド五輪ではエントリーもされなかった。かくも長き不在。失意と屈辱の日々を送っていた"帝王の復活"は執念以外のなにものでもない。1年後の82年12月20日、帝王はバルガルデナで24勝目を上げた。この82/83シーズンは5度目の滑降タイトル獲得し復活を強く印象づけた。
そして84年1月21日、キッツビューエルのシュトライフで、クラマーは最後の25勝目を上げた。
クラマーはワールドカップ滑降で115戦を戦い、1985年3月10日、アスペンに於ける34位を最後に引退した。ワールドカップ生活13年間でトータル26勝を上げ(滑降25勝、コンビ1勝)、3回の世界選手権に出場し金メダル1個(74年サン・モリッツ複合)、銀メダル1個(74年サン・モリッツ滑降)、2回のオリンピックに出場し金メダル1個(76年インスブルック滑降)を獲得した。クラマーのベスト・アドバンテージは75年ウェンゲンに於けるプランクとの3秒54差、最小アドバンテージは75年キッツビューエルに於けるG・トエニ(ITA)との百分の1秒差(実際は千分の3秒差で現在のルールでは1位同着)、ワースト記録は83年キッツビューエルに於ける1位プランクに5秒08遅れの43位である。
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