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| JAGGE Finn-Christian (NOR) |
1966年4月4日 Stabaek(NOR)生まれ
身長 178cm 体重 82kg |
SKI: Yamaha→Salomon
BOOTS: Nordica→Salomon
BINDING: Marker→Salomon
2000年3月19日引退 |
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| Madonna di Campiglio 92 SL/ 1st |
Albertville OWG SL/ 1st |
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| Lech 95 SL (↑クリック拡大) |
Madonna di Campiglio 94 |
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World Cup Ranking
General
1986/80th, 1987/76th, 1988/76th,
1989/-,
1990/-, 1991/61st, 1992/14th,
1993/72nd, 1994/22nd, 1995/40th, 1996/29th, 1997/16th, 1998/24th,
1999/16th, 2000/44th.
Special
1992 SL/3rd, 1998 SL/4th.
1999 SL/3rd. 2000/15th.
World Championships
1985 Bormio SL/19th.
1987 Crans Montana GS/29th,
K/7th.
1989 Vail SL/13th, GS/23rd,
SG/36th.
1996/Sierra Nevada K/8th.
1997/Sestriere SL/13th,
K/8th.
Olympic Games
1988 Calgary DH/35th, K/9th.
1992 Albertvill SL/1st
1994 Lillehammer SL/6th.
1998 Nagano SL/7th.
World Cup -7 w. (7 SL)
| 1. |
SL: |
Madonna di Campiglio 92, Kranjska Gora 94.
Vail 97, Sestriere
98,
Sestriere 99, Ofterschwang 99, Madonna 00. |
| 2. |
SL: |
Sestriere 92, Shigakogen 97, Yong Pyong 98 |
| 3. |
SL: |
Kranjska Gora 92, Crans Montana 92, Park
City 94, Madonna
94,
Kitzbuhel 97, Park
City 98, Crans Montana
98, |
| 4. |
SL: |
Breckenridge 92, Stoneham 94, Sestriere 94.
Park City 99. |
| K: |
Chamonix 97. |
| 5. |
SL: |
Park City 92, Chamonix 94, Kranjska Gora
99, |
| 6. |
SL: |
Wengen 92, 95, 97, Flachau 97. |
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2000年3月19日、ボルミオ(ITA)で行なわれた今季ワールドカップ最終戦のスラロームを最後に、ヤーゲは「白いサーカス」に別れを告げた。1985年、19歳でワールドカップの世界に入り16年間の競技生活をここで締めくくった。間もなく34歳になろうとしていた。
2000シーズンのスラロームは最初から大いなる混沌の中で始まった。突然のマテリアルの変化はロートルを蘇らせ、新人に活躍の場を提供した。パーク・シティ(USA)のキャンセルでビーバー・クリーク(USA)に移ったスラローム第1戦でベテランのディディエ・プラッシー(SUI)が初優勝を上げた。186cmのストックリだったが、これがショート・カービング・レボリューションの始まりである。そして第2戦のマドンナ・ディ・カンピリオ(ITA)ではさらに10cmも短い176cmのサロモンを使用したヤーゲが優勝した。これを契機にことスラロームに関する限りは一気にショートカービングに切り替わった。今季スラロームのタイトルを獲得した同僚のシェティール・アンドレ・オーモットや最終戦で優勝したオーレ・クリスチャン・フルセットも同調し、180cmのノルディカでピステを席巻したのである。ヤーゲは最終戦のスラローム2本目を蝶タイのフォーマルスーツで滑りピステに別れを告げた。
フィン・クリスチャン・ヤーゲは1991年12月17日、マドンナ・ディ・カンピリオのスラロームでワールドカップ初勝利を上げた。「白いサーカス」7年目にしての快挙であった。しかもこの勝利は日本製スキー(ヤマハ)の初勝利でもあった。そしてこのシーズン、アルベールビル(FRA)オリンピックのスラロームで金メダルを獲得した。
ヤーゲはワールドカップに参戦して間もなく2度に渡る大怪我で'89、'90シーズンを完全に棒に振った。彼の左膝の靱帯はその一部が欠落している。完全な靱帯なしに競争に挑んだおそらく唯一のレーサーだ。'91季にヤマハを履いて復帰したヤーゲは12月のセストリエール(ITA)のスラロームでなんとゼッケン59番から15位入賞。復活の足がかりを掴んだ。ヤーゲは負傷に苦しめられたどん底の状態でも、決して成功の夢をあきらめることはなかった。
ヤーゲの一家は有名なスポーツ一家だ。母親は元スキーレーサーで、'60年と'64年の二つのオリンピックに出場し、'64年インスブルック(AUT)のスラロームでは7位となっている。そして父親は国内タイトルを65回も獲得した有名なテニスプレーヤー。姉もかつてはスキーレーサーだった。そしてヤーゲ自身、若い頃にはテニスを志したことがある。しかし余りにも気が短かすぎたという。「私は悪いショットをするとすぐラケットを投げつけていた。テニスは私に適したスポーツではなかった」。結局ヤーゲは父親の道をあきらめ母親の道を選んで成功した。
「私は直感的に動き、攻撃的な性格を持つ。これはどん底からなにくそと思いながら這い上がるには必要なものであったと思う」と金メダルを獲った後で語っている。
ヤーゲは障害者や癌患者の救済活動のためにエネルギーを傾けてもいる。彼の友人で1995年にトレーニング中に転倒して半身不随になったトーマス・フォグデ(SWE)のために特別な車椅子を提供したり、子供たちの癌調査のための資金を援助している。同僚のラッセ・シュースとは定期的に若い癌患者を訪問するボランティアを続けている。
引退後は2002、2003年とアメリカ・バーモント州のバーク・マウンテン・スキーチームのヘッドコーチをしていたが、2004年からカリフォルニア州にあるシュガーボール・スキーチーム&アカデミーのヘッドコーチに就任した。奥方と二人の子供と友に7月にシュガーボールに移住する。 |
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Biorama Basel |
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