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| DAVID, Leonard (ITA) |
1960年9月27日 Gressoney St.Jean(ITA)生まれ
身長 162cm 体重 67kg
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SKI: Rossignol
※1985年2月26日没 |
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| Lake Placid. 3,Mar,'79 |
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World Cup Ranking
General
1979/11th
Special
1979 SL/8th, GS/15th
World Cup - 1 w. (1 SL)
| 1. |
SL: |
Oslo 79, |
| 2. |
SL: |
Jasna 79, |
| 3. |
SL: |
Kranjska Gore 79, |
| GS: |
Planai 79, |
| 6. |
SL: |
Kitzbuhel 79, |
| GS: |
Jasna 79, |
| 7. |
SL: |
Madonna 79, |
| GS: |
Oslo 79, |
| 9. |
GS: |
Adelboden 79, Steinach 79, |
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レオナルド・ダビッド。彼は栄光を置き去りにして、アルペンのピステを風のように通り過ぎていった。
1979年3月3日、レーク・プラシッド(USA)のホワイトフェース・コースはオリンピックを1年後にひかえて賑わっていた。この日の男子滑降はシーズン総決算の最終戦。選手たちは次々とゴールを切り雪煙を上げてブレーキをかけていた。ゼッケン22番のレオナルド・ダビッドはゴール前のバンプで転倒し、約30メートル流されてゴールラインを越えた。ごく普通の転倒であったし、ヘルメットで防護された頭は打たなかった。それでも明らかにショックを受けた様子でチームの方へ滑って行った。彼はデメッツ監督に言葉をかけた。「中間タイムはどのくらいだった?」、その直後、ダビッドはまるで感覚がなくなったようにどっと崩れ落ちた。そして、中間タイムを知るチャンスは2度と巡っては来なかった。
イタリア男子はその栄光の色彩を失ってから数年たっていた。グスタボ・トエニの3連覇を含め、ピエロ・グロスと二人でワールドカップ5連覇を成し遂げ、「青の軍団」と恐れられていた面影がまったく影をひそめていた。トエニもグロスも'75年以来勝つことができなかったし、イタリア男子チームの勝利は'76年12月のマドンナ・ディ・カンピリオ(ITA)でファウスト・ラディチが回転を制して以来なかった。
ダビッドは1978年、ヨーロッパカップにわずか17歳で総合優勝。トエニに代わるイタリアの新しい星としてクローズアップされた。彼は翌78/79シーズン、勇んでワールドカップに乗り込んできた。
開幕のシュラドミング(AUT)の大回転で、ステンマルクに1秒13差の3位に入り、回転では第2戦のクラニスカ・ゴラ(JUG)で3位を確保して一気に注目を浴びるスラローマーになった。「こんなにうまくいくとは思わなかった。得点を続けられるのはハッピーだ」クラニスカ・ゴラではルーキーの初々しさを持って語ったダビッドは、その1カ月半後にはイタリアにとって待ち遠しすぎた1勝を勝ち取った。79年2月7日、オスロ(NOR)の回転である。1本目、フィル・メーア(USA)と並んでベストタイム。ステンマルク(SWE)を0秒33離した。シーズン初めは見上げる存在だった二人が、いま自分と争っていることにダビッドは確かな手ごたえを感じた。トータルでステンマルクを0秒07破った。たった100分の7秒が、ダビッドにとっては夢のような、貴重な時間だった。
チームの危機が叫ばれ、偉大なるドン、マリオ・コテリ監督が解任になって1週間後のイタリアの復活だ。コテリはトエニ、グロスを率いてイタリア全盛時代を築き、その大きな体と人柄で人気があったが、チームが不振に陥るや、その独特な考え方が連盟やマスコミから非難され通しだった。結局身を引かざるを得なくなった直後だけに、イタリアの新しい時代を際立たせた。
けん引車を見つけたイタリアチームは大喜びだ。オスロからオーレ(SWE)に向かう汽車の中で、バスの中で、陽気なイタリアチームは大騒ぎ。シャンペンを飲み、笑い、美しいイタリアの歌を歌い続けた。
レオナルド・ダビッドはイタリア北西部アオスタの谷のグレイソネイで1960年9月27日に生まれた。17世紀、アオスタの谷に逃げ込んだフランス系イスラエル人の子孫だ。栄光の先祖と同じように体は小さい(1m62、67s)が大きなことをやりとげた。1957年ダビデ・ダビッドという選手がイタリア選手権滑降のチャンピオンになった。その息子がレオナルドである。ダビッドは父親から徹底的にスキーを仕込まれた。才能に恵まれ、進歩は目に見えるようで、スキーに対する熱意を小さな体にみなぎらせていた。
ダビッドは彼が模範とするトエニと同じようにプライベートな時間ではひかえめであり、だがスキーに関しては攻撃的であった。明快な思慮と冷静さを持っていた。また、父親からは完璧さへの執念を受け継いだ。だから回転、大回転だけでなく滑降も練習し、全てのレースに参加した。テクニカルな種目に花開いたが、滑降にも強い関心を持っていた。
レークプラシッドを前にして、ダビッドはコルチナ・ダンペッツォ(ITA)で滑降の練習をした。だがこの練習中に転倒して頭を打ってしまった。その後ダビッドは頭痛を訴えるようになる。ダビッドの悲劇の原因はこの時にあり、レークプラシッドの転倒が引き金となった。
ダビッドが倒れたレークプラシッドのゴール付近。関係者たちはあわてた。ゴールには応急手当をする何の準備もなかったのだ。ダビッドはすぐに昏睡状態になってしまったのに、循環機能を蘇生させる注射の用意もなく、口から口への人工呼吸をするのが精一杯だった。オフィシャルの医者はすぐにヘリコプターを要求した。だがさらに悪いことにヘリコプターはゴール付近に着陸できず200メートルも低い場所にあった。そこまでダビッドはスノーボートで運ばれたが、頭や心臓、呼吸の状態に対して完全に悪影響を及ぼした。軍のヘリコプターがバーリントンの病院に運んだとき、ダビッドの生命は非常に危険な状態で、神経外科医が手術をし、凝固した血を脳から摘出してかろうじて生命を救うことに成功した。
当然のようにさまざまな批判が起こった。緊急時に満足な応急手当もできない不備については、レークプラシッドの組織委員会が厳しく糾弾された。ヘリコプターの件に関しては「環境保護者たちがヘリの待機をゆるさなかった」という批判が選手達の間からでた。また、イタリアチームの健康管理については重大な責任があったと言わざるを得ない。「転倒して頭痛」を安易に受けとめたことは単に気のゆるみではすまされないことだ。しかもレースに参加させるとは。
ミシェル・デュジョン(FRA)の死から4年後にダビッドが、そしてダビッドの事故から5年後にヨセフ・ワルヒャー(AUT)が死に、さらに6年後にラインシュタドラー(AUT)の死が起きている。レース中にだ。生命をかけてはならないのがスポーツのはずだ。
事故から2ヵ月後、レオナルド・ダビッドは眠ったまま故郷イタリアへ向かった。依然として昏睡状態が続き、緊急医療設備のついたイタリア空軍機にはドクター一人と二人の看護婦、数人の医療技術者が同乗した。ずっと付きっきりだった両親もレオナルドとともに飛び立った。父ダビデはこうあいさつした。
「この事件は私たちにとって大変つらいことでした。でも、世界中の人達からの関心や暖かい同情が私たちを支えてくれました。いまレオナルドは家に帰ろうとしています。私たちはレオナルドの回復を祈っています」。
不幸な事故から6年後、両親のたつての依頼で生命維持装置が外された。ダビッドは眠りのなかで、レークプラシッドの中間タイムをずっと知りたがっていたのだろうか。 |
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