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| JOHNSON, Bill (USA) |
| 1960年3月30日 Van Nuys,Ca.(USA)生まれ |
SKI: Atomic
BOOTS: Raichle
BINDING: Tyrolia
※1988年シーズンを最後に引退 |
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| 1984 Sarajevo OG DH/1st |
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World Cup Ranking
General
1983/65th, 1984/14th, 1985/57th, 1986/41st, 1987/-,
1988/-.
Special
1984 DH/3rd/
World Championships
1985 Bormio DH/14th.
Olympic Games
1984 Sarajevo DH/1st
World Cup - 3 w. (3 DH)
| 1. |
DH: |
Wengen 84, Aspen 84, Whistler 84. |
| 4. |
DH: |
Cortina 84 |
| 6. |
DH: |
St.Anton 83 |
| 7. |
DH: |
Wengen 85, Whistler 86. |
| 8. |
DH: |
Kitzbuhel 86. |
| 9. |
DH: |
Are 86. |
| 10. |
DH: |
Wengen 85, Morzine 86. |
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ビル・ジョンソンはフランツ・クラマー(AUT)に「ノーズピッカー(鼻ほじり野郎)」と罵られながら、そのクラマーに一矢報いてワールドカップに勝ち、オリンピックに勝った。一風変わった雰囲気を持った選手で、いつもどこか遠くを見ているような焦点の定まらない目付きでボーッとしている事が多く、威風堂々筋肉マンの多い滑降選手の中では、華奢で存在感の薄い、ヘルメットの似合わない選手だった。彼が「ノーズピッカー」と言われたのには根拠がある。バルディゼール(FRA)の中間駅にあるゲレンデレストランで、トレーニングランの合間に彼が鼻から“粉”を吸い込んでいるところをオーストリアの選手たちに目撃されたからである。それが“粉タバコ”だったのか“白い粉”だったのかは、筆者は見たわけじゃないから分からない。選手たちの間ではまさしく“ヤク”だったとのもっぱらの噂だった。だが勝てば官軍。84年のサラエボ(JUG)五輪で金メダルを獲得し一躍アメリカの英雄になった。
1983/84年のシーズンはクラマーが不死鳥のように蘇った年だが、それと同時に新人たちが多く輩出した年でもあった。ビル・ジョンソンもそんなルーキーの一人だった。正確な名前はウィリアム・デビッド・ジョンソンという。ビルがワールドカップに参戦したのは82/83年のシーズンから。この年はルーキーながらサン・アントン(AUT)で6位に入る健闘を見せていた。眉毛を剃り、鼻の下に髭を蓄えた彼は、ヨーロッパのまともな選手たちを見慣れた目には一種異様な存在で、選手たちは誰も彼を仲間扱いはしなかった。
ビルは翌84年1月15日、ウェンゲン(SUI)のラウバーホルン滑降でゼッケン21番から初優勝を飾った。この日はボタンのような大きな湿った雪が間断なく降り続き、レース開始が30分刻みに延期され、ようやく2時間遅れで開催された。しかもスタート位置を下げ、全長4290mを3499mに短縮して行なわれたレースだった。2位には59番でスタートしたスラローマーのアントン・シュタイナー(AUT)が入り、このことからもビルの優勝は“フロック”であると言われたのである。
だがこれは決してフロックなどではなかった。ビルは82/83シーズン、ヨーロッパカップの滑降と総合のチャン ピオンになってワールドカップに上がって来た選手である。だがこのシーズンのここまでの成績を見るとフロックと言われても致し方のない面はある。ウェンゲンの後のキッツビューエル(AUT)では45位の定位置だった。続くガルミッシュ(BRD)では転倒で途中棄権。続くコルチナ(ITA)でようやく4位に入ってオリンピックのサラエボに乗り込んで来た。コルチナにスーツケースを置き忘れて。
サラエボに入ったビルの生活はこれまでと変わった所はなかった。アメリカチームの他の選手達とは別行動を取り、トレーニングにも出掛けず、読書にふけったり、貴重なガソリンを無駄に使いポリスのやっかいになったり。アメリカのABCテレビのインタビューでも
―スタート台に立って最初に考えることは
ビル--最初のターン
―その次に考えることは
ビル--2番目のターン……といった具合に。
だがトレーニングランでは良いタイムを出したことで、ヨーロッパのプレスもようやくビル・ジョンソンの存在を認めだした。大雪のためにスケジュールは大幅な変更を余儀なくされ、大会2日目の2月9日に予定されていた男子滑降が行われたのは第8日目の2月16日。ビェラシェニッツァの滑降コースは雪をパックした(踏み固めた)軟雪のコース。これはウェンゲンの例を出すまでもなくビルが最も得意としているコースである。しかしビルはゴール前の“狼のジャンプ”までは2位のペーター・ミューラー(SUI)、3位のアントン・シュタイナーに負けていた。このジャンプとその前のプレジャンプの処理が明暗を分けた。かくしてビル・ジョンソンはアメリカ人としては初のオリンピックでの滑降ゴールドメダリストになったのである。このオリンピックはアメリカチームが大活躍したことでも記念すべきオリンピックであった。女子大回転でデビー・アームストロングが金、クリスティン・クーパーが銀、男子回転でフィル・メーアが金、双子の弟スティーブが銀メダルを獲得し、5個のメダルをアメリカに持ち帰ったのである。
ビル・ジョンソンはオリンピックのあとのアスペン(USA)とウイスラー(CAN)のワールドカップでも優勝し、この年ワールドカップに3勝、オリンピックに1勝という成績を残した。当時のビルのコーチは現在スイスチームのヘッドコーチを努めるテオ・ナディックである。
テオも異端のコーチだった。独特のコーチング哲学を持っていた彼は、伝統的なカリキュラムを重んじるスイスではコーチとして高くは評価されなかった。テオは活躍の舞台をアメリカに求め、ビル・ジョンソンという異端の選手につくことによって成功を治めたのである。札幌オリンピックで滑降と大回転に金メダルを取ったマリーテレーズ・ナディックの兄としてしか知られていなかったテオは、ビル・ジョンソンがサラエボ五輪滑降で金メダルを獲得してから脚光を浴びた。
ビル・ジョンソンは60年3月30日カリフォルニア州ロサンゼルス、ハリウッドヒル近くのバン・ニュイス生まれ。父親のウォリーはコンピュータ・アナリストをしていた。近くにスキー場はなかったが母親がオレゴン州のマウント・フッド近くの出身で、その関係で子供のころからスキーをする環境はあった。だが悪がきだったことは確かで、ドラッグにふけったり、カーチェイスでポリスの世話になったりといった少年だった。スキーだけが唯一健康的な遊びだったと言える。だが特別なスキーエリートでもなく、むしろ家庭環境は複雑だったようだ。ウェンゲンで優勝した時に彼の父親はテレビでのインタビューに「私はビルがUSチームに拾ってもらったので非常に安心している。そうでなければ、今頃ビルはロスで麻薬の密売でもやっていたでしょうから」と答えている。
彼がナショナルチーム入りをしたのは80年のレークプラシッド五輪で前走を務めたのがきっかけである。81年に彼は一度ナショナルチームから追放になっている。ろくに自主トレーニングもせずにたるんだ体で夏季合宿に参加し、それを見たヘッドコーチのビル・マロルトに帰りのチケットを渡されたのである。それを鍛えたのがテオ・ナディックというわけである。
ビル・ジョンソンは栄光を引きずりながら88年までレースを続けたが彼の乱脈ぶりに業を煮やしたヘッドコーチのハロルド・ションハーに首を切られた。だが当のションハーもただちにUSスキーチームから追放になった。またテオ・ナディックもアルゼンチンのチームにアドバイスしたことが発覚し、契約違反でUSチームを追われた。かくしてアメリカの一つの栄光の時代は終わった。
ビル・ジョンソンは2000年突然カムバックしノル・アムシリーズに参戦を始めた。2002年のソルト・レーク五輪にアメリカ滑降チームとして参加したいというのがその理由である。だが2001年3月22日、モンタナ州のビッグ・マウンテンで行なわれた滑降レースで転倒し、頭部を強く打って生死の境をさまよった。→詳細はこちら |
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